朝から、自分勝手な反省をして涙に暮れている。
せめて今日、善い人でありたい。
おはよう、おはよう、せかい。
朝から、自分勝手な反省をして涙に暮れている。
せめて今日、善い人でありたい。
おはよう、おはよう、せかい。
あゝ、一週間はあっという間……
それでも、一日いちにちが重なっているのだからやはり意義深い。
雪が降ったり、春になったりした。
立春! もうすぐ春!
ところで、立春というと『早春賦』を思い出すのですが(そして私はこの歌がとても好きです)、改めて読んでみたら、いやあ、この、3番の歌詞がなんとも良い。
ほんとにねえ、いったい、どうしろというのか……(これはまた別の話ぽいですね)。
今日、この日がとくべつだと、いつも忘れずにいたいものだ。
今日を一年の始まりにする、という手法もあるのでは?
そろそろ今年の手帳はバーゲンになってもいいとおもう。
靴下用の小さなカイロを貼ったら、いままでの寒さと冷えが嘘のように感じる。
ゆびさきのぬくもりが身体をあたためて、仕事場が急に快適になる。
※規模ではなくて、効果で価値が計られることのたとえ。
年明けに放送された『ウタフクヤマ』をようやく少しずつ見始めている。
画面手前で、なんだか疲れた感じの小室哲哉氏。ときどき笑うけど、少しくたびれたような表情にも見えて、よく分からんがいろいろたいへんだったんだろうなあ。
秋元氏が「今まで自分が気づけなかった才能を見つけてくれる誰か」をずっと待ってる、っていうような話をしてて、うーん、そうか、還暦を前にしてなおその感じが、あれだけやってきてさらにその感覚が、ものつくる人の生命力というものだろうか。
というかそもそも還暦を前にするからそう思うのだろうかなあ。
そしてどんな感じのキャラクターをすくいぬしとしてイメージしてるんだろうか。
などとちらほらと考えながら、蜷川さんのワンピースを眺めている。あの肩がおしゃれなのかな……
自分にはあと20年くらいあることを思うと、「誰か」が与えられるのか、その価値に気付けるのかは、今日明日の一日一日の先にあるのだなあと、さむうううううーーーーーーい夜に思うなど。
いやあ、寒いなあ。
学生の頃に勉強したことのうちのどれだけを覚えているかというと甚だ心許ないが、折に触れて思い起こすのはゼミの時間に先生がふと口にした「ことばというのは概念ですから、」ということばです。たぶん12世紀とか17,8世紀ごろの話をしてたんじゃないかと……
そのときの“ことば”というのは「恋愛」だった。
……だったからかどうか分からないけど、はー、なるほどことばというのは(つまり、何かをそれと名付けるということは)概念の存在を認める、それがどのように在るかてことを示すものなんだなあ、と思った※ことを覚えている。
ことばは、何かを定義づける。そういう力や、役割が、ことばにはある。
新しいことばは、それまでは存在しなかったものを出現させる。この世界に、私の中に。
というようなことを、今般の『広辞苑』改訂に際して思いましたという記録メモ。
※実際には、そのことばが、書かれた当時にどういう意味・概念を示していたかを調べてからものを言え、というお話だった。各時代の「恋愛」が意味する心情や行為は、それぞれ異なるものだった。
お気に入りのボールペンを尻ポケットにつっこみ、雪に浮かれて遊びに出かけた昨日の息子。
まんまと落として帰ってきたのが夕方(家につくまで気づかなかったらしい)。
帰宅途中にその旨連絡があり、雪に残った息子の足跡が消えないうちにと夜道を1時間ほど歩いたが見つけられず。
そのかわり、雪におおわれた近所の公園には、鳥や犬、ハクビシン?の足跡が見られて、これはこれで収穫。それから、道のわきには「うみう」やら「999」やら、暗号のような子どもの字(あとで聞いたら、やはり彼がかいたものだった)。
翌朝、原稿を1ページ書いてから再捜索。
同じルートを、地面を見つめながら歩く。きらきらと雪を溶かす朝日、水たまりに張った氷、鍾乳石のように育った軒先からの雨だれ。
そして見つけた、雪中の赤いボールペン。
まじか。
すべては定めなのです。
ああ、フォースと共にあらんことを。