台風の近づく日曜日の午後に、パンを食べておりました。
近所のスーパーで購入したベーコンエピで、そのラベルに印刷された店名は「小麦の郷」。
はて、小麦の産地、というネーミングが美味しそう感を出すのはなぜだろうか。
酒や魚なら産地で口にする方が美味しいということは経験的にも理解できるけど、小麦もそういうものなのだろうか。
それとも、産地じゃなくて製粉するところみたいな意味だろうか。精米したてのお米が美味しいのもわかるし、小麦もやはり、製粉したてだと美味しいのかしらん? などと思いながら家人に聞くと、やはり香ばしさが違うよ! とかなんとかで、製粉したての粉でつくったパンは美味しいらしい(とはいえこのベーコンエピの小麦が近所で製粉されたとは思えないけども。まあ、ただの店名ですからそこは)。
ところで、もんだいは「脱穀」である。製粉前の、脱穀である。
脱穀って、なにをどうすることを言うのか?
つまりね、「脱穀」ということばは、なにからなにが脱することを指しているのかということです。
たとえば
脱臭:臭いを(なんかわからんけどくっさいものから)取ること、取り除くこと
ね?
脱毛:体毛を(体から)抜くこと、取り除くこと
ですよね?
脱衣:衣服を(着ている人から)脱がすこと、取り除くこと
でしょ?
や、「脱がす」限定じゃないか。自分で脱ぐ場合も指しますね。
はい、じゃあ「脱穀」は?
……
………………
脱穀:穀を(●●から)取り除くこと
……( ゚д゚)ハッ!?
いやあ、衝撃だった。お恥ずかしながら、私は
脱穀:(コメやらムギやらの粒を取り出すために)茎とかなんかあのへんのもの、あるいは籾殻を取り除くこと ……だと思っていたのです。
この認識からすると「穀」は食べない方(茎や籾殻)のことを指している。
ところがそもそも、「穀」は食べもの(コメやらムギやらの粒の方)のことだ。
妙に変だなーと思ってインターネットに聞いたら、
脱穀:穀物の粒を、穂から取り離すこと(また、もみがらを粒から取り去ること)
ですって。なるほど、まあそりゃそうか……矛盾が解消されました。
が、
そうと分かったら衝撃である。
先の例のように「脱●」といったら、なにか余分なものや、無いほうが都合がいいもの、主体に付属しているものを取り除く・取り外すことをいうものだ(もともとの「脱」には「余分なものを」などという意味はなさそうだけど)。
だから私は、「脱穀」を(たとえば、コメなどの食べもの――主として扱うもの―――にとっては余分な)茎やら籾殻やらを取り除くことだ、と思い込んでいた。
ところが「脱穀」ときたら、取り除かれる(取り離される)のはむしろ「穀」の方である。
粒側から(余分な)もみがらやら茎やらを取り除くんじゃなくて、穂から粒を取り離す。つまりはコメとかの食べる方メインじゃなくて、穂とかの食べない方メイン。どっちかといったら、脱穀の結果生じた米粒側じゃなくて穂(脱穀した後のものはなんていうんですかね。藁?)の方が愛され側。コメが稲と別れ話をするつもりで喫茶店に行ったら逆に稲からフラれたみたいな動揺。
で、私は自らの勘違いというか誤解というか教養の無さというかに気づき恥じ入りそしてその思い込みの背後に、無意識のうちに限定され固定され狭窄した視点視野の存在を感じたわけなのです。
まことに自己中心的なことに、私はコメとかムギとかの「穀(食べられる方)」側にばかり用事があって、茎だの籾殻だのについてはその意義には気づかずっていうかむしろ「余分なもの」と捉え、故にことばの成り立ち方すらないがしろにして「脱穀」の意味を取り違えていたのです。
ああいやだ!
でもまあそれはもういいや、それでねええと、
さらなるギモンは、なぜ「穀から(穂のほかの部分を)取り離す」っていうか「穀を取り出す」ことではなくて、「穂から(穀の部分を)取り離す」ことを指す言葉が使われるのかということなんですよ
つまりなんかこう「抽穀」とかではなくて「脱穀」という言い方をしたのは何故なのかということですが、これは単純に、でっかいものからちいさいものを取り外すていう流れのほうがしぜんていうことですかねそうですねたぶんね、ああそうですか
スーパーへは自転車に乗って行った。
ぐいぐいとペダルを踏み込んで住宅街を走ると、あちらこちらの庭先に橙色の小さな花がたくさん咲いて、雨の気配と金木犀の香りに私は今年もぎゅっとなって、秋の訪れをよろこんでおります。