だめな子のメソッド

ちゃんとできないからダメ、ってホント?
さあ、どうかなあ。

でもそれはちょっと別の話だな、とかくこの世は住みにくい。

これからの世の中に生きていく自力が必要だっていうのなら、おとなの責任はもっと大きくなっていく。

90年代後半に与えられた23時のダイヤルアップ接続音は、私にとっての福音であった。
いま接続音は鳴らず、通知音が鳴る(ときには無音で、あるいはバイブレーションだけが)。能動的受信と受動的発信。

だめな子はいま、どうやって救いを得るのだろう。
おとなになった(?)私は、だめな子の生きるメソッドに、いくばくかでも負うべきものがあるような気がしている。

日の名残

軒下、縁側、アーケード。
屋根がありつつ、ひらけている空間にあこがれている。
台風の夜、雨降る夜、日曜の夜。
あれこれが外を過ぎ去っていくのを感じながら、ちくちくと部屋で過ごすのが好きだ。

そういう仕事、といえなくもないような気もするけどどうか。