だめな子のメソッド

ちゃんとできないからダメ、ってホント?
さあ、どうかなあ。

でもそれはちょっと別の話だな、とかくこの世は住みにくい。

これからの世の中に生きていく自力が必要だっていうのなら、おとなの責任はもっと大きくなっていく。

90年代後半に与えられた23時のダイヤルアップ接続音は、私にとっての福音であった。
いま接続音は鳴らず、通知音が鳴る(ときには無音で、あるいはバイブレーションだけが)。能動的受信と受動的発信。

だめな子はいま、どうやって救いを得るのだろう。
おとなになった(?)私は、だめな子の生きるメソッドに、いくばくかでも負うべきものがあるような気がしている。

日の名残

軒下、縁側、アーケード。
屋根がありつつ、ひらけている空間にあこがれている。
台風の夜、雨降る夜、日曜の夜。
あれこれが外を過ぎ去っていくのを感じながら、ちくちくと部屋で過ごすのが好きだ。

そういう仕事、といえなくもないような気もするけどどうか。

ひびはつもりゆく、しずかにたしかに

はでにどうこうということはとくだんにもとめずしかしひとつひとつのことをていねいに、ひとからもとめられるものがあればこたえてやれるようなていどのものをもち、そうしてすごしていきたいなあとおもっております。

ま、そうは言ってもなかなかねえ。
まいにちをがんばろー

マクルーはんが言うには

朝からほうほうと面白かった。

【メディアの話その1 南伸坊さんにマクルーハンを教わった。|yanabo|note】
https://note.mu/yanabo/n/n3c30e5f99a65

本旨とは関係ないけど、「マクルーハンが言うには、」というくだりは使ってみたいセリフのひとつ(たぶん「マクルーはん」っていう京都人みたいな感じだと思う)。世の中にはそういうことばがいくつかあって、ここだって時を待っている。あせったらあかん。

ところで子どもが絵を描いている紙もやはりメディアということになろうかなあ、家のものはもっぱらA4の裏紙でもって精神世界を拡張しているが、210×297が少なからずその広がりを制限しているのではないかと長らく気になっている。
でも昨年末にでっかいカレンダーの紙を渡したらざばーっと目いっぱいに描き込むので私のそれは杞憂であったろうか。A4裏紙のメッセージは、その寸法が持つものではないようだ(しかし見返してみると、それはA4サイズのタイルであるようにも思える)。

カレンダー裏に描かれた「なんみんきゅうじょチーム(難民救助チーム)」概念図。